2003年11月14日(金曜日) 朝日新聞
↑約35戸の集落は神楽の日、帰省した親類縁者でいっぱい=美和町北中山で
小学生指導し神楽伝承 |
11月2日の夜は、昼過ぎから降り出した雨が霧を呼んだ。闇の中に浮かぶにじんだ明かりから、神楽囃子が聞こえてくる。白羽神社の神楽堂では、金糸で竜を織り込んだ派手やかな衣装を身にまとった舞子が立ち回り、振る舞い酒で赤ら顔になった見物人から拍手と歓声があがった。こよいは、美和町の二ッ野地区の年に一度の秋祭り。
山代白羽神楽は、藩政時代の初期に五穀豊穣や悪病退散を祈願した神事として始まったと言い伝えられる。元々、12座だったのが、天保10年(1839)に芸州(広島県)の明石村の神楽から12座を取り入れ、現在の形になったという。
本来は24の神楽だが、この日舞われたのは6座のみ。「私が子ども時分に舞っていた演題でも、今では再現が難しい」山代白羽神楽保存会の浅畑彪さん(70)は残念がる。かつては、各家の長男しか舞うことが許されない神楽だったが、戦後、町を出る若者が増えて、舞子が減った。仕事や生活の忙しさも伝承を困難にさせた。
団員は現在20〜70歳代の16人。浅畑さんの父が記憶を頼りに書き残した台本「神代の巻」を唯一の手がかりに、練習に励んでいる。近隣の小学生を対象に始めた「子ども神楽」は希望者も多く、明るい話題だ。
72年、民俗学者の宮本常一氏が民俗調査のため同地区を訪れ、神楽を見物した。きらびやかで動きが激しい舞を演じたところ、宮本氏はさほど興味を示さず、別の舞を見たがった。ところが浅畑さんらはできなかった。見物客が増えるにつれ、見栄えのいい舞が練習の中心になっていたからだという。「宮本先生が要求した五郎王子などは、派手ではないが本来のだいご味が味わえる神楽でしたね」