保存会の歩み

山口県東部岩国市の北部山間地域は、山代地方と呼ばれ、数多くの神楽が伝承されている。

山口県と広島県の県境を流れる上流、名勝弥栄峡を見下ろす山の上に、白羽神社を中心とした二ツ野部落があり、この地に古くから伝承されてきた神楽が
山口県指定無形民俗文化財『山代白羽神楽』である。

山代白羽神楽は、石見神楽「出雲流の神楽」の流れをくむといわれているが、その創始については正確なことは明らかでない。
しかし、「寛政6年発記の善秀寺年代記」に
寛政十巳1年の秋9月11日益者生見の舞祭相詞ふ、その年始テ仲ノ田にてまいまふなり・・・(以下略)とあり、江戸時代にはすでに舞っていたことが記されている。
また、安政5年春3月に行われた生見八幡宮御鎮座千年祭の記録の中にも
「・・・同夜舞方二ツ野舞子中・・・(以下略)」とあり、この地方の総氏神である生見八幡宮にも奉納していたことが記されている。
このような古文書記録の他に口碑においても江戸時代に相次ぐ飢饉や疫病の流行に悩まされた農民が五穀豊穣と悪疫退散の祈願をこめた、神事として始められたと伝えられている。

当初は、12座で構成された神事舞いであったが、1839年(天保10年)の白羽神社社殿改築落成興業に招いた芸州佐伯郡明石村(現在の広島県廿日市市)の神楽から鑑賞的な神楽を取り入れることになり、当時の若者が伝習を受けて、12座の神楽を24座に改めたという言い伝えがある。
 昭和初期までは、「二ツ野舞子中」と称していたが、その後、「二ツ野神楽団」と改め、1962年(昭和37年)1月1日に「白羽神楽団」となると共に、二ツ野部落全体で「白羽神楽保存会」を設立する。

こうした神楽も、昭和14年白羽神社の火災によって神楽に使用する衣装・道具類の一切が焼失したり、昭和30年代中頃には、神楽を伝承した若者の部落外への転出が激しくなるなど時代の変遷と共に、何度か存亡の危機があったが、その度ごとに関係者の尽力によって乗り切り、現在に至っている。